LOGIN仲人の話によれば妹の 叶 木蓮 は見合いの席にカジュアルな服装で来るような礼儀作法も知らない娘だが、姉の 叶 睡蓮 は由緒ある家柄の子女らしい立ち居振る舞いであった。しかも雅樹との縁談に前向きだと聞きそれが決定打となった。
「是非とも雅樹と睡蓮さんの縁談を進めて頂きたい」
ただその話は雅樹の知らぬ間に進められていた。海外出張に出掛けていた本人にその旨が伝わったのは半月も後の事だった
気管支喘息の気がある睡蓮は一度も外で働いた事がないいわゆる、深窓の令嬢。自宅で家事手伝いをし茶道花道の手習い事を極めていた。
「睡蓮、顔色悪いわよ。お医者さんに行ったの?」
「やっぱりそうかしら」 「お嫁さんになるんでしょ、体調管理はしっかりしなきゃ駄目よ」 「ありがとう木蓮」片や木蓮は至って健康。短期大学部卒業後、父親が経営する製薬会社に勤めている。社長令嬢ともなれば秘書か人事部勤務かと想像するところだが気質的に「狭苦しい業務は息が詰まる!」と営業部に所属し日々励んでいる。
「木蓮!おまえまた営業部の飲み会に参加したそうだな!」
「なに、なんか問題でもあるの」 「おまえは我が家の跡取りなんだぞ!いい加減落ち着きなさい!」 「えー、なんで跡取りなの」 「睡蓮が和田に嫁ぐんだ!誰が叶を継ぐと思ってるんだ!」 「えー」 そして叶家と和田家の見合いから半月後、雅樹は出張先のイタリアから帰国した。そこで自身の意向とは真逆、叶 睡蓮との縁談が進んでいた事に愕然とした。「父さん、どうしてそんな勝手な事をしたんだ!」
「おまえだってどちらの娘でも構わないと言っていたじゃないか」「それは写真を見た時の話だろう!」
「雅樹さん、彼方の睡蓮さんは和田家に相応しい方よ」
「相応しい、相応しいってなにが!」 「お料理もお上手だし、お茶もお花も、それに雅樹さんの事を気に入って下さっている様だし。良いお話だと思うけれど」睡蓮が雅樹に一目惚れしたと言い放った木蓮。
(............俺は)
木蓮を想う自身の感情を持て余しながら雅樹はイタリア土産を手に叶の家を訪ねた。
イタリア出張の土産はヴェネチアンガラスのアクセサリーに決めた。
(私と睡蓮を見比べているんでしょう!)
木蓮の言葉がいつまでも耳に残った。彼女は戯けた表情で不満を溢したが、実は常日頃から睡蓮と比較される鬱積した思いが遂に爆発したのではないか。雅樹は木蓮の悲痛な叫びを聞いた様な気がした。
「木蓮らしいものが良いな」
雅樹は視察の隙間時間が出来ると橋の袂に並んだ露天商の店を見て周った。
雅樹が帰国した数日後の夜。叶家は和田家よりも歴史が古く和風家屋の見事な庭園が雅樹を出迎えた。門構えのすぐ脇には赤松、その奥には立派な樹木が白い花を咲かせていた。それは夜目にランタンが灯っている様で一際目を引いた。
「こんばんは、夜分遅くに失礼します」
「まぁ、雅樹さん。睡蓮、睡蓮、雅樹さんよ!」叶家では既に雅樹の妻に収まる娘は睡蓮と決まっている様子だった。
「雅樹さん、イタリアからお帰りになられたんですね」
「はい」 「お元気そうで、良かった」 「睡蓮さんは身体のお加減は如何ですか」 「喘息が少し、でも大丈夫です」雅樹が睡蓮への土産として購入したのは既製品のヴェネチアンガラスのペンダントだった。
「これ、イタリアのお土産です」
睡蓮は包装紙のテープを恐る恐る剥がすと白い小箱の蓋をそっと開けた。
「...........!綺麗!」
それは湖水に咲く睡蓮の花に相応しく、かぎりなく透明に近い青だった。
「気に入って頂けましたか」
「はい!」 「どれどれ、これは美しい!チェーンもK18、18金じゃないか」「睡蓮、雅樹さんに付けて頂いたら?」
「..............え、恥ずかしい」そう言ってテーブルに視線を落とした伏目がちな黒曜石の瞳は木蓮に瓜二つで雅樹は戸惑った。
「なにを恥ずかしがっているの。旦那さまになるんでしょう?」
「恥ずかしい」「僕も、僕もそれはまだちょっと」
「そうですな、母さんは気が早いな!」
「ごめんなさい私、調子に乗ってしまったわ」そこで雅樹は木蓮の姿が無い事を尋ねた。
「木蓮、木蓮さんはご不在ですか」
「あぁ..............木蓮は営業部のコンパだと出掛けて行ってしまったよ」「営業部、営業部ですか?」
「あぁ、話していなかったかな。木蓮はウチの営業部で働いてるんだ」 「営業部」 「秘書は性に合わんらしい」「あーすみません、コンパとは」
「あぁ、将来の婿を探しに行くと息巻いて出掛けて行きました」 「コンパ」 「困ったもんです」 「コンパ、ですか」雅樹の怪訝そうな顔に慌てた父親は睡蓮の頭を撫でた。
「あぁ、雅樹くん安心して下さい」
「はい?」 「睡蓮は何処に出しても恥ずかしくない娘ですから」 「はい」 「可愛がってやって下さい」 「はい」木蓮はこうやって幼い頃から比較されて来たのかと思うと雅樹の胸は痛んだ。
「それでは失礼致します」
「また気兼ねなくいらして下さい」 「ありがとうございます」 「ほら、睡蓮、お見送りして」 「................はい」雅樹を見送る睡蓮はその三歩後ろを歩いた。確かにこれならば和田家の家風にもすぐに馴染めるだろう。
(.............なんだか緊張するな)
玄関の引き戸を開けると湿気を帯びた夜が芳しく纏わり付いた。
「睡蓮さん、この匂いはなんでしょうか」
「あぁ、大山木です」先程ランタンの様だと見惚れた樹は泰山木だった。睡蓮に案内され白い花を見上げるとそれは木蓮の花に良く似ていた。
「木蓮の様ですね」
「似ていますね、あぁ、そうだ!」睡蓮は可愛らしく微笑むと泰山木の幹を愛おしそうに撫でた。
「小さい頃、落ちたんです」
「落ちた、睡蓮さんが!?」 「まさか!木蓮です。木蓮がこの樹に登ってしょっ中落ちていました」 「それは凄いですね」 「その度にお手伝いの田中さんが木蓮を抱えて病院に走っていました」 「...............さすが」 「え?」 「いいえ、なんでもありません」雅樹は泰山木を見上げ、よじ登る幼な子を思い描き失笑した。
「それでは、また」
「はい」睡蓮は名残惜しそうな面持ちだったが雅樹は会釈し叶家を後にした。
(...............ふぅ、疲れた)
ポケットの中で車の鍵を弄りながら坂道を下ると、レンガ畳みを上って来る女性の影が見えた。
遠目にも分かる白いカッターシャツにジーンズ、木蓮だった。ほろ酔い気分なのか足元が覚束ない。木蓮も雅樹に気が付いたのか片手を挙げて「よっ!」と挨拶した。
(...............見合い相手に「よっ!」はないだろうが)
はぁと大きなため息を吐いた雅樹は手招きをした。
「なによ、イタリアのパスタは美味しかった?」
「あぁ、オリーブオイルと塩しかないパスタだったけどな」 「ご愁傷さま」雅樹は木蓮のロイヤルブラウンの髪に手を伸ばして臭いを嗅いだ。
「おまえ、煙草吸うのか」
「吸わないわよ、居酒屋で付いたのよ」 「居酒屋ぁ?」 「そう、コンパだったの」雅樹の眉間に皺が寄った。
「なに、般若みたいな顔してるわよ」
「いい男は居たのか」 「あー、それがアンポンタンみたいなボンボンばっかで帰って来たわ」 「そりゃ残念だったな」 「本当に!2,800円返して欲しいわ!」そこで木蓮は右手を差し出した。
「はい!」
「なんだよ、その手は」 「お土産あるでしょ!」 「あーあるある、ちょっと待ってろ」雅樹はスーツの胸ポケットからクラフト紙の小袋を出した。それはテープで留められただけの質素なものだった。
「............なによこれ」
「だから土産だよ」 「しょぼっつ!」 「探したんだよ、おまえに似合いそうなもの」 「ふーん」ベリっと封を開けると中には深紅の丸い物が入っていた。暗がりでは良く見えないがガラス細工である事は確かだ。
「早く見てみろよ」
「なに急がせてんのよ」 「それ、ガラス職人が作った、お前だけの指輪だから」 「................へぇ」 「へぇじゃねえよ、感動しろよ」雅樹は木蓮から小袋を奪い取るとその左手を取った。
「なに」
「黙ってろ」それはシンプルだが木蓮の花弁がひとひら浮かんだガラスの指輪だった。雅樹はそれを木蓮の左の薬指に嵌めた。
「なっ、なに勝手な事してんのよ!」
雅樹は木蓮を抱き締めると煙草臭いロイヤルブラウンの髪へと顔を埋めた。
「くせぇ」
「ちょ」 「もうコンパなんか行くな」 「なに、誘われたら行くわよ」 「行かないでくれ」木蓮の顔が赤らんだのは焼酎のせいでは無い、心臓が跳ね上がったのも日本酒のせいでは無かった。それだけ伝えると雅樹は「おやすみ」と後ろ手に手を振り街路樹の向こうに消えた。
「ガラスの指輪なんて、すぐに割れちゃうじゃない」
木蓮はカッターシャツのポケットに指輪を入れた。
荘厳なパイプオルガンが響きマホガニーの扉が大きく開いた。蓮二の肘にウェディンググローブの指を添えた木蓮が深紅のバージンロードを静々と進んで来た。胸元が大きく開いた白銀のウェディングドレスは腰から裾に掛けてリボンが折り重なり、ヘッドドレスにカサブランカの白い花弁が咲き乱れた。「汝、和田 雅樹は、この女、叶 木蓮を妻とし、良き時も悪き時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分つまで、愛を誓い、妻を思い、妻のみに添うことを、神聖なる婚姻の契約のもとに、誓いますか?」「誓います」「汝、叶 木蓮は、この男、和田 雅樹を夫とし、良き時も悪き時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分つまで、愛を誓い、夫を思い、夫のみに添うことを、神聖なる婚姻のもとに、誓いますか?」「誓います」 左の薬指に輝くプラチナの結婚指輪。荘厳なパイプオルガンが2人の門出を祝う。雅樹の離婚から3ヶ月という事もあり結婚式は近しい身内だけで挙げた。「返して」 木蓮が新居のマンションに移り住む荷造りをしていると部屋の扉が音を立てた。その声は睡蓮、扉を開けると仁王立ちでこちらを睨んでいる。木蓮が何事かと怯んでいると睡蓮は無言で手を差し出した。「な、なによ」 「返して」 「なにを」 睡蓮は段ボール箱から顔を出した焦茶のティディベアを指差した。「なに、あんたもう要らないって投げ付けたじゃない」 「九州に連れて行くから返して」 「分かったわよ、ちょっと待ってなさいよ」 木蓮が後ろを向いてしゃがみ込むと背中に温かいものを感じた。「ありがとう」 睡蓮が木蓮の背中を抱きしめていた。「ちょっ.......ちょっとやめてよ、恥ずかしい!」 「ありがとう」 「なんの事か分かんないけれど........どーいたしまして」 涙が背中を伝いしんみりしていると睡蓮は突然立ち上がった。「.......返して」 「なに、まだなんかあるの」 「そのくま、返して」 その指はベージュのティディベアを差していた。「なに、あんた執念深いわね」 「それは私のティディベアなの」 「はいはい、ベージュと焦茶抱えて九州に行きなさい」 木蓮はダンボールの奥からベージュのティディベアを取り出すとポンポンと形を
睡蓮と雅樹は菓子折りと離婚届を手に車を降りた。雅樹の顔は強張り無表情、足の動きも不自然で右手と右脚が同時に動いた。駐車スペースには伊月のBMWが駐車していた。「雅樹さん、そんなに緊張しないで」「そうだけど」「もうお父さんとお母さんには話してあるから」「そうなんだ」「さっきも言ったでしょう、聞いていなかったの!?」 離婚を決めた女は強い。すっかり形勢逆転で睡蓮は虎の威厳、雅樹は借りてきた猫状態だった。「ただいま!」「あらまぁ、睡蓮さんお久しぶりです。さぁさ、和田さんもお入り下さい」 お手伝いの田上さんがスリッパを並べてくれたが雅樹は緊張のあまり足を引っ掛け床に倒れ込んだ。その音に驚いた木蓮が顔を出した。「あんた、なにやってんの!」「お邪魔します」「雅樹さん、先に行きますね」 睡蓮は雅樹に手を貸す事も無く廊下を歩いて行った。玄関の上り口で膝を強打した雅樹は痛みに顔を顰めている。それを仁王立ちで見ていた木蓮は右手を差し出し「掴まって」と眉間に皺を寄せた。「ありがとう」「なにあんた、2ヶ月で離婚とか甲斐性無しね」「誰のせいだと」「誰のせいよ」「......俺のせいだよ」「ほら、行きなさいよ!」「お、おう」 立ち上がった雅樹はリビングに進み土下座をして「申し訳ございませんでした!」とペルシャ絨毯に頭を減り込ませた。「まぁまぁ、雅樹くん、顔を挙げてほら、座りなさい」 穏やかな声に安堵して見回すと、蓮二、美咲、木蓮、伊月がソファに座っていた。気が付くと睡蓮も雅樹の隣で正座し深々と頭を下げていた。「お父さん、お母さん、この度はご心配ご迷惑をお掛け致しました」「なにを言っているんだ」「そうよ、私たちが結婚を急かせたのが悪かったのよ」 蓮二と美咲は頷き、2人にソファに座るように手招きをした 雅樹はソファに腰掛けたもののその居心地の悪さに尻が落ち着かなかった。気配を察知した睡蓮がテーブルの下でその手
明日、和田家で離婚に至った経緯や財産分与について話し合う事になった。次に実家の両親に離婚の理由を納得して貰う為、なにひとつ隠す事なく洗いざらい打ち明けなければならない。(.......恥ずかしい) 確かに見合いの席で雅樹に心を奪われたが真剣に結婚を望んだ訳では無かった。(どうかしていたわ) 雅樹が木蓮を選んだと知った時、激しい嫉妬心が芽生えた。(愚かすぎるわ) 結婚前、いや結納前から雅樹とは性が合わない事を肌で感じていた。それにも関わらず木蓮に負けたくない一心で縁談を進めた。(馬鹿じゃないの) 雅樹は睡蓮を気遣い優しい言葉で話し掛けてくれた。ところが睡蓮はいつもそこに木蓮の気配を感じ刺々しい言葉遣いや態度を取ってばかりいた。(勝手よね) そして木蓮への当て付けの様に結ばれた雅樹との夫婦生活は2ヶ月程度で破綻、しかも離婚届を雅樹に叩き付けたのは睡蓮自身からだった。(都合良すぎるわ) ただそこに伊月が現れなければ睡蓮は苦虫を潰した様な面持ちで、雅樹と殺伐とした結婚生活を送っていたに違いなかった。(軽蔑されるわ) 伊月の背中を追って九州に行きたいと言い出したら両親は嘆き悲しみ、木蓮には蔑まれるに違いなかった。(最低だわ) 睡蓮は自分の身勝手さがどれ程の人間を傷付け、これからも傷付けてゆくのかと自分自身を責めながら夜明けを迎えた。 睡蓮と雅樹の名前が並んだ離婚届を見た雅次と百合は言葉を失った。睡蓮の左の薬指に結婚指輪は無く、目の前の出来事が事実である事を示していた。「雅樹、これは如何いう事なの」 「それが、俺も昨日突然」 「私たちが跡継ぎの事を言ったからか?」 睡蓮は深々と頭を下げ違うとだけ答えた。「雅樹.......睡蓮さんと.......あの」 「睡蓮さんと関係が無いというのは本当なのか」 雅樹は視線をテーブルに落とし小さく頷いた。「なんで、なんでこんな事に!叶さんとの約束が反故になるじ
睡蓮は出勤する伊月の車に同乗し金沢大学病院を受診した。ピンポーン 「115番の方6番診察室までお入り下さい」 睡蓮の足は震えていた。伊月の書いた紹介状は女医の手に渡った。「えーー、叶 睡蓮 さん」 「はい」 「呼吸器内科の田上医師からの紹介状を頂きました、産科婦人科の森田です。以降担当させて頂きます」 生まれて初めて座る産科婦人科の椅子には程よい硬さのドーナツ型クッションが置かれていた。「よろしくお願い致します」 「はい、よろしくお願い致します」 ベリーショートヘアの溌剌とした雰囲気は木蓮を連想させた。「今回はどうされましたか」 「難病性気管支喘息患者の妊娠出産についてです」 「叶さんも、あぁ.......そうですね」 「はい」 元町はパソコンモニターの前でマウスをクリックした。程なくして睡蓮の通院履歴と病状、処方箋の一覧が表示された。「通院歴は...........長いですね」 「大丈夫でしょうか」 「発作も頻繁に起きていますね」 「はい」 規則的にリズムを刻む機械音、白い壁、行き交う看護師、医師の白衣。睡蓮にとって見慣れたはずの光景が全く違って見えた。「そうですか」 「内診致します。専用の下着を履いてお掛け下さい」 「はい」 壁一枚隔てた隣の診察室からは胎児が順調に育っていると診断され安堵する妊婦の声が聞こえて来た。背後に感じていた待合室の音が消えた 何処までも青い空、白い雲、睡蓮は大きく息を吸い込み和田家母屋のインターフォンを鳴らした。睡蓮の目の前には職務を切り上げた雅次がソファーに浅く腰掛け、震える指でカップソーサーをテーブルに置く百合の姿があった。「ブライダルチェックを行わなかった私の不注意でした」 「そんな..........ちゃんと調べたの」 睡蓮は深々と頭を下げたまま微動だにしなかった。「うちの跡継ぎはどうなるんだ」 「申し訳ございません」 「この事は雅
暗闇でタクシーのハザードランプが点滅する。「ありがとう」 12階建のマンションを仰ぎ見る木蓮のショルダーバッグには810号室の鍵が入っていた。正面玄関エントランスで「8、1、0」のボタンを押すと雅樹の声がしてガラス扉が左右に開いた。(後悔はない) エレベーターホールに立つ木蓮の脚は震えていた。 街灯の灯りの下でタクシーのハザードランプが点滅する。「ありがとうございました」 山茶花の垣根を折れると5階建のマンションが小高い丘の上に建っていた。睡蓮の手には一泊分の旅行鞄、505号室のカーテンは開き逆光の中で伊月が睡蓮を待っていた。「5、0、5」のボタンを押すとガラスの扉が左右に開いた。(後悔はしない) エレベーターホールに立つ睡蓮はその箱の中に足を踏み入れた。 810号室、見上げたネームプレートにはWADAの4文字、最初に来た時には気付かなかったが木製のプレートにはヨットの模様が彫られていた。(.........セーリングが趣味だとか言っていたわね) 重い音が解錠を知らせ木蓮の心臓が跳ね上がった。「.......よう、久しぶり」「........よう、久しぶり」 雅樹の首元に残る柑橘系の爽やかな香りが木蓮を包み込み胸が締め付けられた。あの情熱的な夜を思い出す悲しさ。「入らないのか」「これ..........返しに来ただけだから」「そうか」 木蓮はショルダーバッグから810号室の鍵を取り出すと差し出された雅樹の手のひらに置いた。心許ない金属音が耳に残った。「じゃあ」「じゃあ」 木蓮は雅樹を振り返る事もなく背を向けた。愛おしい女性の後ろ姿を見送った雅樹は音もなく玄関扉を閉めた。力が抜けその場に座り込むとハタハタと涙が溢れて落ちた。カツカツカツと遠ざかるパンプスの足音。(..........木蓮) 耳を澄ませばエレベーターの扉が閉まるベルまで聞こえるような絶望感に襲われた。
白い部屋、眩しいLEDの蛍光灯、注射台の上に肘を着けた睡蓮は思わず顔を背けた。その苦々しい面持ちに注射針を腕に刺しながら看護師が笑った。「睡蓮ちゃんは本当に採血が苦手なのね」「血を見たく無いんです」「ほーら、どんどん採っちゃうわよ」「やめて下さい」「ほーら」「やめて下さい」 睡蓮と看護師が遠慮なく遣り取り出来るのは、睡蓮が如何に長期間この呼吸器内科に通院しているかを物語っていた。物心ついた頃にはこの部屋で吸入器を口に当て、レントゲン室の待合の椅子に座り、泣きながら採血を受けた。「あれ?おじいちゃん先生は?」 高齢の主治医は大学の教授になり目の前の椅子には幼馴染の《伊月ちゃん》が座り聴診器を胸に当てていた。「睡蓮さん、今日から私が睡蓮ちゃんの主治医ですよ」 伊月は喘息を患う睡蓮を助けたいが為に金沢大学医学部を目指し医師の資格を取得した。睡蓮が高等学校を卒業して以来の6年間を伊月は睡蓮の主治医、家庭医として寄り添って来た。「でも睡蓮ちゃん、残念よね」「......え、なにが残念なんですか」「田上先生、九州の大学に転勤になるんですよ」「.....転勤、転勤ですか!?」「そう、九州大学、栄転ね」 睡蓮は隣室で診察をしている伊月に向き直り、カーテンを思い切り開けてそれが事実なのかと問いただしたい感情に駆られた。「あっ!」 気が付けば椅子から立ち上がり、血管の壁を注射針が突いていた。「イタっ!」「あっ!駄目ですよ!動かないで!」「ごめんなさい」「痛かった?ごめんね、内出血するかもしれないわ、ごめんね」「いえ、私が悪いんです」 そしてこの突然の転勤については叶家でも頭痛の種となっていた。「まさかこんな早くに転勤になるなんて」「木蓮、伊月くんからなにか聞いていたのか?」「.......聞いて、ない」 木蓮も予想外の出来事に戸惑った。